「卒論の続き」

一生青春。 架空的計画(visionary scheme)の目標は世界の法則(The Law of the World)を見つけること。

メッセージを論理的に関連づける方法(演繹法と帰納法)

今回は、「演繹法」と「帰納法」について触れたい。


 仕事の中でよく提案の書き方やプレゼテーションについて研修を実施してきた。今回このブログを書きすすめるにあたり、過去の研修を振り返ってみると、研修での説明において自分の中でいくつかの当たり前とすること、前提を気づかぬうちにおいていることに気がついた。

 あらためて文書として自分の思考を整理していくと、自分の中でのあたりまえのように定義している「前提」を説明しておかないとそもそもの説明が成り立たない。そこでこのような説明を構成している隠れた「前提」についてもこのブログの中で明らかにしていきたい。

 自分が使っている前提の中で、特に代表的なものとして今回取り上げる「演繹法」と「帰納法」がある。このブログの中でこれから書いておきたいと考えている「ピラミッド・プリンシプル」や「提案メッセージをどのように構築すべきか」について今後説明していく前提となる考え方なので、今回はこのテーマについて取り上げたい。


「演繹法」とは? 

演繹とは、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論方法。演繹においては前提が正しければ、結論も正しい。このため前提が間違っていたり適切でない前提が用いられれば、誤った結論が導き出されることがある。
 あるメッセージを演繹的に理由付けるには、通常三段論法で表現する。三段論法とは2つの前提(大前提と小前提)から結論を導く論証形式。

  • まず世の中に実在する状況について述べる
  • 次に、同時にもうひとつ世の中に実在する関連状況について述べる。この記述は、最初の記述の主部か述部のどちらかについて注釈することで、最初の記述と関連を持つことになる。
  • 同時に世の中に実在する上記2つの状況が意味することについて述べる

 

  よくある演繹の例:

   1 人はいつか死ぬ(大前提)
   2 ソクラテスは人である(小前提)
   >>> それゆえソクラテスはいつか死ぬ(結論)

 あくまで前提が正しいという限りにおいて結論も正しいということがポイント。
また、演繹的にメッセージを関連づけるためには、1の文の主部/述部のどちらかについてコメントしている必要がある。


  よくある間違い   

   1 すべてのウサギはとても速く走る
   2 ある馬はとても速く走る
   >>> それゆえ、ある馬はウサギである

 この例は1の文の主部/述部について述べたものではなく、実際には1で設定した分類に新たな仲間を加えているだけ。このような場合は、帰納法で関連づけるのが正しい。上記のように簡単かつ常識的におかしいと判断できる文書や内容であれば、このロジックを見破ることは容易い。しかし、内容が複雑だったり、常識的にそうかもと思うような前提をおかれるとこのロジックは見破りにくい。


  よくある罠

   1 コミュニケーション力の高い人物は、就職活動がうまくいっている
   2 Xさんは、就職活動がうまくいっている
   >>> それゆえ、Xさんはコミュニケーション力の高い人物である

 

いかがだろうか。

 このような表現は、次に述べる帰納的なメッセージングで語られればある程度の正しさは担保されるが、演繹的には正しくない。演繹でのロジックをチェックする場合は、ソクラテスの例に取り上げたように簡潔な文でいったん整理し、論理の正しさをチェックしてみると、メッセージの真偽についての検証が容易になる。あくまでも「1の文の主部/述部のどちらかについてコメントしている」ことがポイントだ。

 

帰納法」とは? 

 個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする推論方法。帰納的に導きだした関係は、ある程度は確かであるといえるが絶対的に正しいとは言えない。

 メッセージを帰納的に理由付けるには、いくつかの異なる考え、出来事、事実等、何らかの点で共通点や類似点を見いだし、それらをまとめて類似点の意味について意見を述べる。帰納法は統計的な事実とも言える。あるものごとについての事実を集め、そこから共通の法則やメッセージを導きだす。

 帰納法で仮説を正当化しようとすると、なんらかの壁にぶつかる。帰納の欠点は、下記の3つ。

  1. 事実の理論負荷性:その事実の成立を可能とする理論的文脈や社会的背景なしに、事実は存在し得ない。「思い込みや先入観のない事実」は存在しない、絶対的客観性はあり得ない、ということである。帰納の前提となる事実は、完全には信頼できない。

  2. 帰納の飛躍:どれだけデータ(事実)を集めてもその数は有限。帰納には、有限から無限への無理な飛躍が伴う。

  3. 簡潔性原理の前提:「自然法則は簡潔な構造を持つ」ということを前提にしなければ、帰納は集められたデータから一意的な決定ができない。複数の法則に帰結するようであれば帰納は意味をなさないが、実際は多様性につきまとわれる。そのために、簡潔な法則を選択するという前提があるのだが、その原理自体を帰納では証明できない

 

 近年のテクノロジーの飛躍的な進歩は、これらの前提を覆す可能性もゼロではない。この可能性については、これからの時間の経過と世界の判断を待たねばならないだろう。

 個人的には最後に取り上げた簡潔性原理の前提は、年々蓄積される雑多で膨大なログデータと、ビッグデータを解析できるだけのBIツール等の登場により、近い将来ある一定正らしさを持った法則が導かれるのではないかと推察している。

 自分は、Windows95が普及し始める20数年前にインターネットという存在をはじめて知ったとき、いずれ世界中のデータが蓄積、分析可能な時代になれば、日本のXさんが右手をあるタイミングであげれば、地球の裏側のYさんがあくびをするみたいな分析が可能になる日が来るのではないかという幻想に近い仮説を持っていた。これが実現されるかは定かでないが、確実にそんな分析をできる世の中に近づいているのではないだろうか。こんな時代だからこそ頭は柔らかく、かつ、可能性を追求する志向性を持ち続けたい。

 


「ロジック」か「事例」か 

 直接関係しないかもしれないが、あるコンサルタントの話から、顧客を説得するには「ロジック」か「事例」かのどちらかしかないという話を以前に聞いた。

論理的に、例えば、

  A=B、B=C ∴(ゆえに)A=C

とやるのか、

  XについてAという成功例、Bという成功例、Cという成功例がある、

  だから、Xをやるべき(ちょっと帰納的か?)

 言いたいことは、提案や企画をするときにはロジックが通っているのか、相手が納得するだけの事例を提示できているかいずれかをチェックする必要がありそうだということ。

 自分が述べたい、伝えたいことを客観的に説明するためにはロジックか事例かどちらかを使えばよいと考えれば、作業等の効率が上がるのではないかと考える。少なくとも私は仕事、特に客観性を保ったドキュメント等の作成においては、このアイデアを忘れないように心がけ、思考の節約をしているところがある。


 今回は演繹、帰納という考え方について少し整理をしてみた。あらためて振り返ると、基礎的な事項として、演繹、帰納みたいな説明をしてしまうものの、細かい部分で自分にも大きな気づきがあった。よく聞く内容だからこを、自分の中で深い部分まで落とし込んでおく。そんな繰り返しが思考の質をあげていくポイントかもしれない。